水島の合戦

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平家を追い出して都入りした義仲でしたが、後白河法皇との対立は日に日に深まっていきました。

義仲が田舎そだちで都の風習にうといこと、部下の掌握ができず、略奪を許したこと…理由はいろいろありますが、決定的なことは義仲が次期天皇の人事に口出したことです。

平家が連れ去った安徳天皇にかわる次期天皇として義仲は以仁王の遺児北陸宮を推しました。しかし一介の武士にすぎない義仲が天皇の人事に口を出すなど、それ自体が論外です。後白河法皇は義仲の意見を無視して、高倉天皇の第四皇子尊成親王を践祚させます。後鳥羽天皇です。

一方、都落ちした平家一門はこの頃四国の屋島に拠点として、瀬戸内海の制海権をにぎり、都の奪回をはかっていました。

後白河法皇は義仲を遠ざける意味も含めて、義仲に平家討伐を命じます。寿永2年9月20日、義仲は京を出発。これを迎え撃つべく平家軍は備中水島に陣をひきます。

所は倉敷西南部の水島です。せまい海峡です。現在「柏島」とよばれる側に平知盛、平教経率いる平家軍1000艘、「乙島」とよばれる側に足利義清、海野幸広ひきいる義仲軍500艘が陣取ります。

1183年(寿永2年)閏10月1日 水島合戦
【1183年(寿永2年)閏10月1日 水島合戦】

寿永二年閏十月一日、まず平家軍の船が一艘進み出たのを合図に、合戦が始まります。

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源平両方時つくり、矢合して、互に舟どもおしあはせて攻めたたかふ。遠きをば弓で射、近きをば太刀できり、熊手にかけてとるもあり、とらるるもあり。引組で海に入るもあり、さしちがへて死ぬるもあり。思ひ思ひ、心心に勝負をす。
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陸地の戦いでは破竹の勢いで攻め上ってきた義仲軍でしたが、海の上の戦いでは平家軍に一日の長がありました。平家軍は舟と舟を板で結びつけ、行き来がしやすくしいました。板の上に射手を並べて、ひょうひょうと矢を射かけます。義仲軍はあちらに討たれこちらに討たれ、いつもの快進撃っぷりは見られませんでした。

平家軍、舟を連結
【平家軍、舟を連結】

そのうちに、あたりがぼやーーと暗くなってきます。

「ん?なんだ?」

急に雨雲でも来たかと空をあおぐと、太陽がじわーっと影にかくれていきます。

「た、太陽が!!」

金環食です。平家方は宮中の仕事を通して天文にも通じていましたからこの日金環食があることを見越していました。しかし義仲方は山育ちの知識の足りないものばかり。突然太陽が隠れたことに縮み上がります。祟りか、妖術かとびびりまくります。

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かかる程に、天俄に曇りて日の光も見えず闇の夜のごとくなりたれば、源氏の軍兵ども日蝕とは知らず、いとど東西を失って、船を退きていずちともなく風に随って逃げ行く。平家の兵共は、かねて知りにければいよいよ鬨をつくり、重ねて攻め戦う
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(金環食のことは『源平盛衰記』のみあり『平家物語』には書かれていません)

「敵はひるんでいるぞ!!」

勢いに乗った平家方は舟で乙島まで押し寄せ、舟に乗せていた馬をおろして源氏の陣営に切り込んでいきます。大将軍足利義清、侍大将海野幸広ともに討ち死し、義仲軍はほうほうのていで都へ逃げ上りました。

≫次章「法住寺合戦」

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