燧ヶ城の合戦

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木曾義仲が横田河原で平家方を破り越後国に入ると、
北陸の各地で平家に不満を持つ者どもが反旗をひるがえします。

地元の豪族と寺社勢力、僧兵や神人(下級の神官)が結びついて
「僧兵連合」なるものを形成し、平家に抵抗していました。

北陸は平家にとって重要です。北陸から届く年貢で都は持っていました。
なので北陸から年貢が届かなくなるのは困ります。

すぐにも北陸に討伐軍をさしむけるたい所ですが…
すぐに動けない事情がありました。このころ養和年間、1181年から1182年にかけて
反平家勢力の蜂起のほかにも、大変な問題が持ち上がっていました。

養和の飢饉

後世「養和の飢饉」と呼ばれる記録的な大飢饉です。
日照り続きで食糧が枯渇し都には餓死者があふれました。

鴨長明の「方丈記」には養和の飢饉の様子が生々しく描き出されています。

築地(ついひぢ)のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香(か)世界にみち満ちて、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。

仁和寺の隆暁法印という僧が、京都の町中に餓死者の死骸が転がっている。
まともな供養をする者もなく、あまりにふびんだということで
餓死者の額に「阿」の字を書いて供養をしてまわったところ、
その数四万二千三百におよんだといいます。

「養和」という年号はハズレだ、縁起が悪いということで
「養和」をあらため「寿永」としましたが、おさまる気配はありませんでした。

越前燧ヶ城

ようやく飢饉が下火になってきたのは寿永2年に入ってからです。

飢饉がおさまると先送りになっていた北陸への派兵が行われます。

寿永2年(1183年)4月、平維盛を大将とする討伐軍が北陸へ向かいます。
平家軍の前にまず立ちふさがったのが越前国燧ヶ城です。
所は福井県東部です。

1183年(寿永2年)4月 越前燧ヶ城
【1183年(寿永2年)4月 越前燧ヶ城】

燧ヶ城は平家に抵抗する前線基地として木曽義仲が信濃の豪族
仁科守弘(にしなもりひろ)に命じて築城させたものです。

四方を山に囲まれ、日野川と鹿蒜(かひる)川ふたつの川の合流点に位置し、
川をせきとめて城の前にはなみなみと水をたたえていました。
さながら湖にうかぶ水上要塞のように見えます。

内部には平泉寺の長吏斉明法師以下六千人がたてこもります。

湖に浮かぶ水上要塞のような燧ヶ城を見て、平家方は驚きます。

「これは…舟もなくてはどうにもならぬ…」

平家方は向かいの山に陣どり、これといった策も無いまま
日を暮らし、双方にらみ合いが続いていました。

時々は水上要塞のような燧ヶ城の中からちらちらと敵の姿が見えて
アッカンベーをして「くっ!バカにしおって」ひょうと矢を放つけども
届かないで水の中にぽちゃーんと落ちるような場面もあったかもしれません。

しかし、燧ヶ城にたてこもる平泉寺の斉明法師が
平家方の包囲が厳重で兵力も強大なのを見ていて怖くなったか、
寝返りを決めます。

ひそかに城を降りて平家軍の近くまで近づきひょうと
矢文を射かけます。

「この湖は川をせき止めて人工的に作ったものです。
夜になったら足軽をつかわして柵を切り落としてください。
水はすぐに引きます。浅い川です。馬でかんたんに渡れます。
私も内部から協力します 斉明」

「おお!」「天の助け!」

平家方は夜になって足軽をつかわし柵を切り落とします。

ザバーー

水は一気に流れて、水上要塞燧ヶ城も
単なるハダカの城になってしまいました。

「かかれーーっ!!」
バシャバシャバシャバシャ

浅くなった川を渡って切り込んでいく平家方。

燧ヶ城にたてこもる六千人は抵抗しますが、多勢に無勢。
次々と討たれていきます。しかも背後から裏切り者
斉明法師が、

きりきりきりきり…ひょう!

どすっ!!ぐはっ

ぬ?ぬぬ?はっ!

おのれ斉明!
返り忠かーーッ!

どすっ!! ぎゃあ!!

かくして燧ヶ城はあっけなく落とされてしまいました。

勝利の勢いに乗った平家方は加賀、そして越中へ攻め寄せます。
勝利の知らせは早馬をもって都にもたらされ、
宗盛以下平家一門大喜びします。

もっとも燧ヶ城での勝利が北陸における平家の最後の
勝利となるわけですが…

その後の燧ケ城

燧ケ城は交通の要衝だったため、源平合戦以後もたびたび
合戦の舞台となっています。特に有名なことには、戦国時代
天正3年(1575年)、織田信長の越前一向宗攻めです。

下間頼照(しもつまらいしょう)率いる一向一揆勢力が
燧ケ城にたてこもり織田信長に抵抗していました。

越前に侵攻した信長は下間頼照の一向一揆勢を破り、
以後越前から一向一揆衆が駆逐されます。
かわって越前に配置されたのが柴田勝家です。

以後、信長が本能寺で討たれ天正11年(1583年)
信長の後継者争いたる賤ケ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に討たれるまで、
燧ケ城は柴田勝家の居城として機能しました。

≫次章「木曽願書」

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