小倉百人一首

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百人一首のはじまりの話は、
藤原定家(さだいえ、ていか)の『名月記』に詳しいです。

鎌倉時代に歌人の藤原定家が、
宇都宮頼綱という人の別荘の障子のかざりの色紙として、
天智天皇から鎌倉時代までの歌一人一首ずつ選んだのが
はじまりと書かれています。

その宇都宮頼綱の館が京都嵯峨野の小倉山にあったので、
後世「小倉百人一首」とよばれるようになりました。

宇都宮頼綱

1185年、頼朝は壇ノ浦に平家を滅ぼし、
ついで1189年、阿津賀志山に奥州藤原氏を滅ぼします。

日本国中の敵は一掃され、
いよいよ源氏の世の到来です。

「これで戦が無くなる!」
「ようやく平和な世の中だ」

誰もが期待しました。

しかし、今度は鎌倉内部での争いが始まりました。

蒲冠者範頼、梶原景時、畠山重忠…
幕府創設に大きな働きをした人たちは、
北条氏によって次々と粛清されていきました。

お前はムホンをくわだてている、などと難癖をつけられて。
一族皆殺しです。

将軍家の血筋も頼朝、頼家、実朝
わずか三代で途絶えます。以後北条氏が
執権として権力をふるうこととなりました。

ここに宇都宮頼綱という男がありました。

下野国の豪族で鎌倉幕府の有力御家人です。

1205年、同じく有力御家人の畠山重忠が北条氏から
謀反の疑いをかけられて討たれます。「畠山重忠の乱」です。

宇都宮頼綱もこの時北条氏の配下で
畠山重忠の鎮圧に功績を立てました。

しかし今度は宇都宮頼綱自身が
謀反の疑いをかけられます。

頼綱は身の潔白を訴えた書状を鎌倉政庁に提出し、
下野国へ下り、一族郎党60人頭を丸めて坊主になり、
実信房蓮生(じっしんぼうれんしょう)と名乗りました。

つくづく、イヤになっちゃったんですね。
世の中が。

京都へ上り法然上人の弟子となり、仏の道に入ります。

その後鎌倉から許され、政界に復帰。
伊予国の守護職に任じられています。

藤原定家との交流

晩年の蓮生は、京都嵯峨野の小倉山の邸宅で悠々自適の暮らしを
送っていました。

近くには歌人として名高い藤原定家の邸宅があり、
蓮生と定家は歌仲間としてたびたび遊んでいました。

その上蓮生は娘を定家の息子為家に嫁がせており、
蓮生と定家は親類同士の関係でもありました。

藤原定家と宇都宮蓮生
藤原定家と宇都宮蓮生

時に1235年。

源氏の血筋はとうの昔に絶え、
鎌倉幕府の実質的な指導者であった北条政子も亡くなり、
その北条氏も三代目の
北条泰時の時代になっていました。

この年蓮生63歳。定家73歳です。

ある日、蓮生が定家に相談します。

「うちの別荘があまりに殺風景です。
たとえばこの障子に貼ってかざる字など書いてくれませんか」
「いやあ私は字が下手なんですが…でもまあ、何か書いてみましょう」

百人一首の成立

蓮生の依頼を受けた定家は万葉の時代から鎌倉時代までの
一人一首ずつ集めた和歌のベスト版のようなものをつくり、
色紙に書いて障子の飾りとしました。

昭和26年に発見された「百人秀歌」が、
定家の選んだ、この最初のベスト盤で、「百人一首」の
原型となったという説が有力です。

ただし「百人秀歌」は「百人一首」とは
以下の点で違っています。

●99番後鳥羽院と100番順徳院の歌が無い。
●100首ではなく101首だった。
●一条院皇后宮(藤原定子)・源国信・藤原長方の歌がある。
●源俊頼の歌が違う。

ちなみに後鳥羽院と順徳院は1235年当時、
承久の乱(1221)にやぶれ島流しになっていました。
そのことが両名の歌が漏れていることと関係しているようです。

しかし「百人一首」が先で「百人秀歌」が後だという説もあり、
現在まで決着がついていません。

ようは、「百人一首」と「百人秀歌」の関係は、
「よくわからない」ということです。

なぜ天智天皇が一番なのか?

定家は蓮生から依頼を受けた時から一番の歌は天智天皇にしようと
決めていたようです。

なぜ天智天皇なのでしょうか?

平安時代には天皇も貴族も、天智天皇を
自分たちのルーツとして、特別な存在と考えていました。

672年 天智天皇が崩御すると
その後継者争いから天智天皇の子の大友皇子と
天智天皇の弟大海人皇子の間の後継者争い
壬申の乱が起こります。

結果は大海人皇子の勝利に終わり、大友皇子は自決。
大津京は陥落し、大海人皇子が天武天皇として即位。

これによって天智系は途絶え、
以後約100年間にわたり天武系の天皇が続くこととなります。

天智系と天武系
【天智系と天武系】

しかし770年、
48代称徳天皇が崩御すると皇子がいなかったために
天武系は途絶えてしまいました。

そこで、
天智天皇の第7皇子施基皇子(しきのおうじ)の第6男
白壁王(しらかべおう)を、光仁天皇として即位させました。

以後、平成の今日にいたるまで天智系の天皇が続いています。

なので平安時代の天皇や貴族たちは、
天智天皇を自分たちのルーツとして、特別な存在と考えていました。

このため藤原定家も、蓮生から依頼を受けた際、
第一首は天智天皇の歌にしようと
早くに決めていたようです。

今日に至るまで

現在のようにカルタの形になったのは
戦国時代末期にカルタが輸入されてからです。

江戸時代に入ると木版印刷の発達とともに庶民の間に広がります。

また「源氏百人一首」や「武家百人一首」など、
亜流の百人一首も多くあらわれたので、
それらと区別するために定家の選んだ本家を、
その地名にちなんで「小倉百人一首」と称するようになりました。

明治時代。

当時いちばん売れていた新聞である『萬朝報(よろずちょうほう)』の
社主黒岩涙香が、競技百人一首をさかんに奨励したことで、広まります。

そして現在。

第一首目を詠んだ天智天皇がまつられる滋賀県大津の近江神宮では、
毎年一月に百人一首の名人戦・クイーン戦が開かれ
今日まで脈々と伝統をつたえています。

長安での出会い

仲麻呂が留学先の長安で得たのは
官位や名誉ばかりではありませんでした。

李白や王維という詩人たちとの出会いがありました。
さぞかし交流をあたため、語り合ったと思うんですよ。
互いに文学を論じ、ときにはグデングデンに酔っ払ってですね。

帰国を許される

そして36年後の753年。

仲麻呂はようやく帰国をゆるされます。

19歳の紅顔の美少年?仲麻呂は、
40代なかばのオッサンになっていました。

その帰り際に、李白や王維といった仲間たちが
送別会を開いてくれました。

「天の原」の歌は、その送別会の席で
詠まれた歌といわれています。

「君の帰っていく日本という国はどんな所なんだい」
「私の故郷は、奈良の春日というところですが、
その地元の、三笠山という山には…あの月が同じように
今夜も出ていることでしょう」

そんなやり取りも、あったかもしれません。

天の原ふりさけみれば春日なる
三笠の山に出でし月かも

船が難破する

こうやって帰国の途につく阿倍仲麻呂。

しかし!

仲麻呂を乗せた船は嵐にあい、難破してしまいます。
李白のもとに「仲麻呂が死んだ」という知らせが届きます。

「ああ!あの晁衡が、あんなにも詩を語らった晁衡が!
海のもくずと消えてしまった!!」

チョウコウというのは中国における阿倍仲麻呂の呼び名です。

李白はその時の衝撃を、
「晁卿衡を哭す」という詩にあらわしています。

帰国ならず

実は、仲麻呂が死んだというのは誤報でした。

仲麻呂を乗せた船はベトナムに漂着し、一行は
ベトナム経由で長安にもどります。

そこで再度帰国のチャンスを待というところへ、

755年、安史の乱という唐王朝最大の内乱が起こります。

8年間続いたこの安史の乱の影響で、
仲麻呂は帰国のチャンスをのがします。
73歳で亡くなるまで唐王朝に仕え、
二度と日本の地をふむことはありませんでした。

花の色は

花の色は うつりにけりな いたづらに
我が身世にふる ながめせしまに

花の色はうつりにけりな、花の色は移り変わっていく。
キレイに咲いてたかと思うと、みっともなく腐れ落ちる、

わが身世にふるながめせし間に。「年をとる」という意味の「世にふる」と
「雨が降る」の「ふる」がかけられています。

私の身はすっかり衰え果ててしまったわ、しとしと降り続く長雨を
ぼんやりながめている間に。

老いて衰えていくわが身を嘆く歌です。
しかし、表現が美しいせいでしょうか。
重苦しい陰湿な感じはせず、華麗で優雅に思えます。

そのへんが、今日までこの歌が愛されているゆえんなのかな、
とも思います。

平治の乱

式子内親王が斎院として選ばれた1159年の12月、
都では後白河上皇の側近藤原信頼がクーデターを起こし
後白河上皇とその息子二条天皇の身柄を拘束してしまいます。
1159年平治の乱です。

式子内親王が斎院として
選ばれて2か月後の出来事でした。

式子内親王にとって後白河上皇は父。
二条天皇は異母兄にあたります。

さぞやいたたまれないお気持ちだったろうと思います。

しかし平清盛により後白河上皇と二条天皇は
すぐに救出され、
クーデーターの首謀者藤原信頼は六条河原で
首をはねられます。

ちなみに鴨川ぞいの六条河原には処刑場があり、
その時代その時代、いろいろな人が処刑されてます。
もっと時代が下ると関ヶ原の戦いで敗れた石田三成も
この六条河原で処刑されています。

定家との関係

式子内親王は11年間賀茂の斎院として務め、
21歳?の時病弱のため、退いています。

晩年は出家し、生涯を独身としてお過ごしになりました。
藤原俊成に歌をならっていた関係で、息子定家とも交流がありました。
ために、定家と恋愛関係にあったんじゃないか、
この「忍ぶ恋」の歌は定家とのことを歌っているんじゃないか、
なんて説もあります。

10歳以上年下の恋人定家のことを胸に秘めて歌っている!
そう考えるとロマンがありますが、実際の所はわからないです。

謡曲「定家」

室町時代の能役者金春禅竹(こんぱるぜんちく)による
謡曲「定家」は「式子内親王と定家が恋仲だった」という説に
基づきます。

式子内親王の死後もその恋心を捨てられない定家が、
実葛となって式子内親王の墓にからみついて、
「テイカカヅラ」となったという話です。

本人たちが知ったら「勝手な話を作らないでください」と
怒りそうな気もしますが…。

父 後白河法皇の幽閉

式子内親王の父後白河は名実ともに院の最高権力者でしたが、
日に日に権力をます平清盛との対立を深めていきました。

後白河が平家の相続するはずだった領土を没収したり、
清盛の意向を無視した朝廷の人事を行うにおよんで、
とうとう清盛はキレます。

1179年11月、突如清盛は福原から3000騎の軍馬を
ひきいて都へのぼり、後白河法皇の身柄を拘束してしまいます。

平治の乱で藤原信頼により捕えられた父後白河が、
ふたたび平家によって捕えられたわけです。

式子内親王のお気持ちは、察するにあまりあります。

弟 以仁王の死

また式子内親王は、平家一門にクーデターを起こした
以仁王には姉にあたります。

1180年5月、以仁王は全国の源氏に打倒平家の檄文、
いわゆる「以仁王の令旨」を発し、全国の源氏に届けます。

しかし以仁王のこの動きはすぐに平家方に察知され、
謀反人を捕えよ!ということで検非違使が派遣されてきます。

以仁王はあわてて三条高倉の御所を逃げ出し
大津の三井寺に助けを求めます。そして奈良興福寺との合流を
はかり南へ、南へ逃げていくところに
平家方に追いつかれ、流れ矢を受けて亡くなってしまいます。

弟以仁王の悲惨な死。
式子内親王はどんなお気持ちで弟の死の知らせを聞いたのか。
想像するだに、痛ましいものがあります。

賀茂祭の思い出

平家による父後白河法皇の幽閉、弟以仁王の死…

身内の不幸が重なる中にも、
10代の多感な時期に賀茂の斎院としてお仕えしたこと、
また賀茂祭のことは式子内親王にとって一生にわたる
思い出となったようです。

忘れめや葵を草に引き結び仮寝の野べの露のあけぼの

忘れることなんてできない。葵の葉を草に結んで
野外で仮寝して、そこらに露がおりていた明け方の景色を。

賀茂祭の準備のために神社に泊まった翌朝の景色です。
すみわたった朝の空気が伝わってくるような、清涼感ある歌です。

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