勝浦

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夜が明けると、陸地にはいくらか平家の赤旗がはためいていました。

「ほう。敵もいちおう我々に備えてはいたのだな。
汀で馬を下せば、馬は敵に射ぬかれてしまう」

そこで義経はまだ船が汀につかないうちから
馬を海に泳がせ、船にぴったりはりついた状態で馬を泳がせ、
水が浅くなってきた所で武士たちが馬にまたがり、
おめき叫んでドカドカドカと馬は駆けていきます。

渚に100騎ばかりいた敵は支えきれずに
たちまち押し返されてしまいます。

義経は伊勢三郎義盛に、

「義盛、敵の中に駆け入って、
適当な者をつかまえてまいれ」

「ははっ。お任せください」

和田義盛は平家軍の中にバカバカバカと
駆け入り、適当な者をつかまえてわが馬に
かつぎ上げ、

「お、おおっ!」

と焦る敵をものともせず、
また義経のもとへ舞い戻りました。

「そのほう、名は?」

「阿波国の住人。近藤親家」

「近かろうが遠かろうが知ったことではない。
屋島まで道案内をせよ。
この男から目を離すな。逃げたらすぐに射殺せ」

こうして義経軍は捕虜の近藤親家を
案内役とします。まず、

「ここはなんという地か」
「勝浦と申します」

「なに勝浦。縁起がよすぎる地名だな。
なにも義経の機嫌を取る必要は無いのだぞ」

「ほんとうに勝浦と言うのです。
下郎どもは訛でかつらと言いますが、
文字に書けば勝浦です」

「これから戦をしようという時に
勝浦とは全くさいさきがよい。

時に親家、この辺に平家の味方をして
源氏に後ろ矢を射そうなものは無いか」

「それならば阿波民部重能の弟、
桜間介能遠という者があやしいです」

阿波民部重能は
弟の桜間介能遠

「では、蹴散らそう」

義経は捕虜の近藤親家の手勢と
自分の手勢をあわせて桜間能遠の城へ
攻め寄せてみると、
三方は沼。一方は堀です。

義経軍は堀の方面から
ワアッと時の声を上げます。

「敵襲ーッ!敵襲ーッ!」

城内の桜間介能遠の手勢は
必死に防ぎ矢を放って抵抗しますが、
義経軍はおめき叫んで攻め入ってきます。

「と、とてもかなわぬ!」

桜間介は家の子・郎党たちに防ぎ矢を射させ、
自分は屈強の馬に乗って、逃げ去っていきました。

義経は城塞にたてこもった桜間介の
家の子郎党20名あまりの首をはね、軍神にささげ、
「門出に縁起がよい」と全軍に時の声を上げさせました。

義経は捕虜の近藤親家に尋ねます。

「屋島にはどれほどの軍勢があるのか」
「千騎もいないでしょう」
「なに?どうしてそんなに少ないのだ」

「四国の各浦々、島々に守備隊を配置せねばならぬので
どうしても手薄になります。
その上阿波民部重能の嫡子田内左衛門教能が
伊予の豪族河野通信(こうのみちのぶ)を征伐に向かっておりますので…」

河野通信は頼朝にやや遅れて以仁王の令旨を受け取って
挙兵した源氏で、以来、四国で平家に抵抗していました。

「では、ここから屋島までどれほどの距離か」
「二日です」

そこで
義経は全軍に命じて夜通し馬を走らせます。

阿波と讃岐の境の大阪越を越えて、翌2月18日の早朝、
讃岐の引田(ひけた)入り、丹生屋(にゅうのや)、
白鳥(しらとり)を通って屋島の陣営を目指します。

阿波~讃岐
【阿波~讃岐】

「屋島の陣営はどのような感じだ」

「水は浅いです。潮が引いてしまうと、
陸地と島との間には馬の腹ほどまでしか水が無くなります」

屋島
【屋島】

「では押し寄せよ!」

義経軍は高松の民家に火をかけ、
勢いに乗って屋島の陣営まで攻め寄せます。

その頃屋島では、

阿波民部重能の嫡子田内左衛門教能が、
伊予の豪族河野通信を征伐に向かっていましたが、
大将の河野通信は討ち漏らしたものの、
家の子・郎党百五十人の首を挙げて、
宗盛の宿所で首実検をしているところでした。

そこへ、

ワアー、ワアー

時の声が響いてきます。

「どうした!?」

焦る宗盛。

「昼間にまさか失火ではありますまい。
敵が押し寄せて火をかけたと思われます。
あの様子ではかなりの大群。取り囲まれてはどうにもなりません。
船にお逃げください」

屋島の陣営の入り口の門の前の渚に舟をつけると、
平家一門、我も我もと乗り込みます。

安徳帝がお乗りになる御座舟には
建礼門院、二位の尼もお乗りになり、

宗盛親子は一つ舟に乗り込み、

その他はみな思い思いの舟に乗り込んでいたところへ、

バシャバシャバシャバシャ

義経軍が馬を駆って押し寄せてきます。

折しも引き潮時で、馬の立てる派手な水しぶきが
霞のように立ち込める、その中から、
源氏の白旗がざざっと差しあがると、

平家方から見ると、ものすごい大軍が
襲いかかってくるように見えるのでした。

実は義経軍はわずか70騎程度だったのですが、
義経は小勢であることを敵に悟られぬよう、
五六騎ずつのかたまりを作って押し寄せてきました。

≫次章「継信の最期」

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