太平記

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日本の歴史の中にはドラマにも映画にも
しにくい時代というものがあります。

南北朝時代はその最たるものではないでしょうか。

京都の北朝と吉野の南朝…
天皇家が二つに別れてあらそったということも
今日の天皇制にまでかかわってくるデリケートな問題ですし、
何より南北朝時代の勢力関係、時代背景はかなり複雑です。

「どうも南北朝時代はわかりにくい」

歴史ファンの中でも、そういう声は多いようです。

昭和33年吉川英治氏による『私本太平記』の新聞連載がはじまり、
平成3年にはこの吉川英治版『私本太平記』を原作とした大河ドラマ
『太平記』が放映されました。

しかし、その後南北朝時代をあつかった作品は、
あまり発表されていません。

勧善懲悪の単純な物語に落とし込みにくい、
ビジネスになりにくい時代なのかもしれませんね。

南北朝時代について

そもそも『太平記』の背景になっている南北朝時代とは、どんな時代か?

複雑な話です。グチャグチャに入り組んでいます。

おおざっぱに言うと、

京都に御所を置く北朝と、奈良の吉野に御所を置く南朝。この両者が互いに正当性を主張して、争っておりました。

そこへ、全国の武士が、俺は北朝側だ、いや俺は南朝派だといって、分かれて、
約50年間にもわたって争った……そういう時代です南北朝時代。

なんでこんなややこしい話になったのでしょうか?

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『太平記』 あらすじ

鎌倉時代末期の後醍醐天皇の倒幕計画からはじまり、
鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇による建武親政とその失敗、
足利尊氏の離反、南北朝の分裂、

後醍醐天皇の崩御、そして足利政権の内部抗争をへて
幼い将軍義満の補佐役として細川頼之が就任するまで、
約50年間を描きます。

物語性が高く、ドラマや小説の題材になるのは
後醍醐天皇の崩御までを描いた第一部だけです。

後醍醐天皇、楠正成、足利尊氏、新田義貞といった
派手な役者がそろってますし、
展開もドラマチックで面白いです。

特に楠正成の存在感は際立ってます。

楠正成について

皇居の東南にある公園には、
楠正成の精悍な像が建っています。

楠正成は南朝につくした武将ですから、
現在の皇室が北朝の系統であることを考えると
皇居に楠正成像があるのはおかしい気もするんですが…。

まあ北朝だ南朝だという話を超えて、
天皇に忠義をつくした武将ということで、
像が建っているのでしょう。

戦前の皇国史観のもとでは、忠臣の鑑のように
持ち上げられましたが、最近では
楠正成?誰それと、
知る人も少なくなってきています。

最期まで後醍醐天皇に忠義をつくし、
負けるとわかっていながらも足利尊氏との最後の決戦にのぞみ、
ついに兄弟刺し違えて命を絶った、
楠正成。

いったいどんな人物だったのでしょうか?

「悪党」 楠正成

楠正成の出自は、「太平記」にも
ほかの歴史資料にも、詳しく語られてはいません。

河内の出身で、鎌倉幕府から「悪党」とよばれていました。

「悪党」とは、文字通りの悪人ということではなく、
朝廷だ幕府だという既存の枠組みにとらわれない、
好き勝手やっている連中という意味あいです。

「悪」の字も、悪い、という否定的な意味ではなく、
「力強い」「武力がある」という意味でした。

正規の武士じゃないんです。
楠正成は、常識はずれの、悪党ならではのゲリラ戦をします。

大岩を落す、熱湯をふりかける、またはわら人形をいっぱい用意して、
ワーッとその後ろから鬨の声をあげる、

敵がつっこんできたところに、あれ、なんだこれゃ人形じゃないかと
拍子ぬけしているところへ、大石をゴロゴローと落として、
ぎゃあーと、ぺしゃんこにするという、

こういうゲリラ戦法で、敵を翻弄したことが
「太平記」には書かれています。

建武の親政と足利尊氏の離反

楠正成、最大の見せ場といえば、
やはり「桜井駅の子別れ」です。

「青葉しげれる桜井の…」と唱歌にも歌われている
『太平記』の中でも特に有名な場面です。

鎌倉幕府を倒し、新政権を樹立した後醍醐天皇。

天皇による直接政治によって、
世の中を正すのだ!

しかし、

この「建武の親政」。
天皇による直接政治は、すぐにハタンします。

公家に厚く武家に軽い恩賞。
また土地の所有権の管理がズサンだったことから、
武士の気持が離れていきます。

とうとう、政権樹立にもっとも功績のあった
足利尊氏、その人から背かれてしまいます。

足利尊氏は一時朝廷軍に敗れるも、
九州に落ち延び、勢力を整え、
ふたたび京都にせめのぼってきました。

楠正成への命

「兵庫で尊氏を迎え撃て!」

朝廷から、楠正成に命がくだります。
しかし楠正成、

「私は反対です。九州一円の味方をひきつれ、
尊氏はたいへんな勢力になっておりましょう。

これを迎え撃つのは無謀というもの。

それよりも帝は一時比叡山にお逃れになり、
尊氏を都に入れてしまいましょう。

その上で、私と新田義貞殿とで京都を攻め、
尊氏を挟み撃ちにするのです」

むむ、さすがは正成であると後醍醐天皇が
納得しかけたときに、わきから
坊門宰相清忠という公卿が口をはさみます。

「正成殿はそうおっしゃるが、帝がむやみに都を
離れ逃げ回るのでは民の心が離れてしまおう。

それに尊氏の勢力といっても、それほどのものでもあるまい
第一、都を戦場にするのはいかがなものか」

戦のプロである正成からすると、いかにもシロウト意見でしたが、
とうとう兵庫で尊氏を迎え撃つことに決まってしまいました。

桜井駅の子別れ

というわけで、

これから足利尊氏との決戦のため兵庫に向かう楠正成。

正成には、もう、負けることはわかってるんですね。
帝には徳が無い。時勢は尊氏にある。
それはわかっている。

しかし、

わたしは最期まで帝にお仕えするのだ。

正成は、途中大阪の桜井という宿場町で、
嫡子正行(まさつら)に言います。
お前は故郷の河内へ帰れ、と。

「何をおっしゃるのです父上!正行は父上とともに
最期まで朝敵と戦い、名誉ある討ち死にを遂げとうございます」

「聞け正行。獅子はわが子を千尋の谷に突き落とすという。
そうして登ってきた者だけを真の子として認めると。
お前ももう10歳をすぎている。父の言うことをよく聞くがよい。

わしが死ねば世は足利の天下となる。

お前はあくまで生き延び、帝にお仕えし、
いつか必ず朝敵をほろぼすのじゃ」

…ということで、青葉の下で
父子、泣く泣く別れたという、
桜井駅の子別れの場面です。

原文

楠正成、これを最後と思い定めたりければ、嫡子正行が十一歳にて父が共したりけるを、桜井の宿より河内へ帰し遣はすとて、泣く泣く庭訓を遺しけるは、「獅子は 子を産んで三日を経る時、万仞の石壁より母これを投ぐるに、その獅子の機分あれば、教へざるに中より身を翻して、死する事を得ずといへり。況や汝はすでに十歳に余 れり。一言耳に留まらば、吾が戒に違ふ事なかれ。

今度の合戦天下の安否と思ふ間、今生にて汝が顔を見ん事、これを限りと思ふなり。正成討死すと聞かば、天下は必ず将軍の代となるべしと心得べし。しかりとい へども、一旦の身命を資けんがために、多年の忠烈を失ひて、降参不義の行迹(ふるまひ)を致す事あるべからず。一族若党の一人も死に残つてあらん程は、金剛山に 引き籠り、敵寄せ来たらば、命を兵刃に堕し、名を後代に遺すべし。これをぞ汝が孝行と思ふべし」と、涙を拭つて申し含め、主上より給はりたる菊作りの刀を記念に見よ とて取らせつつ、各東西に別れにけり。その消息を見ける武士ども皆感涙をぞ流しける。昔の百里奚は穆公晋の国を討たんとせし時、軍の利なき事を鑒みて、その将孟 明視に向つて、今を限りの別れを惜しむ。今の楠正成は、大敵関西に責め近づくと聞きて、国の必ず亡びん事を愁へて、その子幼き正行を留め置き、なき跡までの義を 勧む。彼は晋代の良弼、是は吾が朝の忠臣、時千載を隔つといへども、前聖・後聖一揆にして、ありがたかりし忠臣かなと、感ぜぬ者もなかりけり。

現代語訳

楠正成は、これを最後と覚悟を決め、十一歳になる嫡子正行が父の共についてきたのを、桜井の宿より河内へ帰すにあたって、泣く泣く最後の教訓を残した。

「獅子は子を産んで三日をへた時、万仞の高さの石の絶壁よりわが子を投げ落とすという。その獅子に天分があれば、教えてもいないのに中空で身をひるがえして、 死から免れるという。ましてお前はもう十歳をすぎている。父の言葉が一言でも耳に留まっているなら、わが教えにそむくことがあってはならない。

今度の合戦は天下分け目の正念場だと思うので、生きてこの世でお前の顔を見ることはこれが最後になると思う。正成が討死したと聞けば、必ず足利将軍の天下と なることを心得ておけ。だからといって、一時の命を助かるために長年の忠節を捨てて、足利に降伏し、不義の行いをしてはならぬ。一族若党のうち一人でも生き残った 者は金剛山にたてこもり、敵が攻めてきたら最期まで戦って討死にし、名を後の世に遺すべきである。これぞお前が果たすべき最大の孝行と知れ」

楠正成は涙をぬぐってわが子正行に、こう言いふくめ、天皇よりたまわった菊づくりの刀を形見にせよとて手渡しつつ、父子東西に別れたのだった。その一部始終を 見ていた武士たちは、みな心を打たれて涙を流した。

昔、古代中国の晋の国に仕えた百里奚は、敵穆公が晋の国を討とうとした時に、戦に勝ち目がないことをさとり、わが子である晋の将軍孟明視に向かって、最後の 名残を惜しんだ。今の楠正成は、巨大な敵が西から都に責め寄せる聞いて、国が必ず滅びることを憂い、幼いわが子正行を故郷河内国にとどめおかせ、自分が死んだ 後までの天皇への忠義をすすめた。

あちらは中国晋の時代の名補佐官百里奚、こちらはわが国の忠臣楠正成、千年の時をへだてているといっても、どちらも行った道は同じである。世にも稀な忠臣の 鏡よと、誰もが感じ入った。

楠正成の最期

その後、楠正成は神戸の湊川で足利との決戦に臨みます。

楠方はさんざんに打ち破られ、わずか七十三騎となり、
覚悟をきめた正成は弟の正季とともにある民家に逃げこみます。

いよいよ切腹という段になって、
正成は弟の正季に言います。

「思い残すことは無いか」
「七度までも生まれ変わって、朝敵をほろぼしとうございます」
「いかにも罪深い考えだが…わしも同じ気持だ」

ということで、ズブッと兄弟刺し違えて命を絶ったのでした。



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