枕草子

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『枕草子』は平安時代中期、一条天皇の中宮定子に
つかえた女房、清少納言によって書かれた随筆です。

吉田兼好の『徒然草』、鴨長明の『方丈記』とならび、
日本三代随筆の一つとされます。

「春はあけぼの」…日本人なら誰でも知っている、
学校で必ず習う、おなじみの冒頭部分。

歯切れのよい言葉で、四季折々の
自然の美しさや味わいをつづります。

それぞれの冒頭は「春はあけぼの」「夏は夜」と
キッパリ体言止めで言い切り、それに続く文章も歯切れよく
心地よいリズムを刻みます。

春の早朝の霞がかった山を遠くに眺めていると、
夏には蛍がとびかい、秋は夕暮れの空を飛ぶカラスや雁の群れ。

季節季節の情景が次々と目の前に浮かんでくるじゃないですか。

秋の夜は風の音と虫たちの合唱が耳に響き…
聴覚にも訴えてきます。

そして冬。凍てつく冷気が肌を突き刺す感じ。

五感を刺激する、身体感覚にあふれた文章。
これだけの内容がわずか300文字に凝縮されている。
すごいことです。

目でたどって読むのもいいですが、
声に出して味わってみると、いよいよその良さが伝わってきます。
ぜひお試しください。

春はあけぼの

原文

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は夜。月の頃はさらなり。闇もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。

秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。

まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。 日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。

冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白い灰がちになりてわろし。

現代語訳

春は夜明け方がすばらしい。山際がだんだんと白くなってきて、ほんのりと明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいているのは、いいものだ。

夏は夜がすばらしい。月が出ているのは、いっそうのこと、月の無い闇夜でも、たくさんの蛍が飛び交っていたり、また一つ二つの蛍がほのかに光って飛んでいくのも、いい。雨など降るのもいいものだ。

秋は夕暮れが素晴らしい。夕陽が差してきて今にも山の境に沈もうとする頃、烏が寝所へ行くということで、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐのも味わいがある。

冬は早朝がいい。雪が降った時は言うまでもない。霜がたいへん白いのも、またそうでなくても、たいへん寒い時に火など急いで起こして炭を持って廊下を通っていくのも、たいへん、しっくりくる。

昼になってだんだん寒さが緩んでくると、炭櫃の火も白い灰が多くなってきて、いただけない。

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作者 清少納言について

作者・清少納言について、詳しいことはわかっていません。
本名も生没年も未詳です。

「清少納言」とは、中宮定子に仕えた時に
おそらく定子からつけられたと思われる「女房名」です。

「清」は清少納言の属する「清原氏」から。

「少納言」は、通常父親の役職名がここに来ますが、
父清原元輔もその他の親類にも少納言に就任した者はいませんので、
なぜ少納言なのかは謎です。

歌人の家系

父清原元輔は【梨壷の五人】に数えられた
有名な歌人です。

村上天皇の時代、『後撰和歌集』の編纂と古くなって
読みにくくなった『万葉集』に訓読をつけることを目的として、
「和歌所」が設けられます。

「和歌所」があった建物「昭陽舎」の前には梨の木が植えて
あったので、和歌所の職員のことを
「梨壷の五人」と言います。

父清原元輔のほか
坂上望城(さかのうえのもちき)、紀時文(きのときぶみ)、
大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)源順(みなもとのしたごう)
が名をつらねていました。

また曽祖父の清原深養父も歌人として
名をはせた人物です。

父の元輔、曽祖父の深養父、そして清少納言自身も
中古三十六歌仙という歌詠みのベスト版のようなものに選ばれ、
また百人一首にも歌が採られています。

清原家には清少納言が幼い頃から、今をときめく歌人たちが
多く出入りしたことでしょう。

清少納言はこのような文学的に恵まれた空気の中、
明るく利発な少女として成長していきます。

中宮定子との出会い

981年(天元4年)年ごろ、
名門橘家の嫡男橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し、
一子則長(のりなが)をもうけます。

橘則光は『宇治拾遺物語』や『今昔物語』にも強盗を撃退した
逸話が出ている人物で、武勇に優れていました。

教養深い清少納言と、無骨で一本気な則光。

けっこういい組み合わせだと思うのですが、あまり
そりがあわなかったようで、ほどなくして離婚しています。

その後20歳ほど年上の藤原棟世と再婚、
一子小馬命婦(こまのみょうぶ)をもうけます。

ちなみに小馬命婦は後年上東門院彰子に仕え
上東門院小馬命婦と呼ばれています。

993年(正暦4年)清少納言は一条天皇の中宮定子のもとに
宮仕えをはじめます。

この年、中宮定子は18歳。
清少納言28歳くらい。

清少納言はこの10歳年下の女主人に
とことん惚れ込み、『枕草子』の中で
中宮定子を絶賛しています。

中宮さまは素晴らしい、中宮さまは素敵、
中宮さまはお美しい、中宮さまはお優しい、
教養にあふれていると。

読んでるほうが、くすぐったくなるほどです。

また中宮定子も「少納言、少納言」と呼びかけて、
清少納言をたいへん可愛がりました。

中宮定子のもとには多くの才能あふれる女房たちが集い、
今をときめく男性たち、公卿殿上人が集い、
連日連夜、お祭りのようなにぎやかさでした。

その中でも、清少納言はたちまち花形的存在となります。
明るく、物事に対する感激をすなおに表す清少納言は
まわりの女房たちや宮中に出入りする人々からとても好かれました。

清少納言にとって、もっとも楽しかった時代と
いえるかもしれません。

宴の終わり

しかし楽しい宴も長くは続きませんでした。

995年(長徳元年)中宮定子の父、関白藤原道隆が没すると、
かわって弟の道長が関白に就任します。

定子と彰子
【定子と彰子】

道長は道隆の息子であり定子には兄弟にあたる
伊周(これちか)と隆家(たかいえ)を左遷し、大宰府送りにしてしまいます。

後ろ盾をうしなった定子は苦しい立場に立たされます。

また道長は娘の彰子(しょうし)を入内させます。
すでに中宮定子がいたにも関わらず、道長は
中宮定子を皇后定子とし、長女彰子を中宮彰子としました。

「中宮」と「皇后」…ようはお妃という意味で
同じなんですが、名前が違っていればいいだろうという
理屈です。

ここに一人の天皇に二人のお妃がいる、
「一帝二后」の先例が作られました。

にぎわっていた定子のサロンも日に日に廃れていきます。
権力者藤原道長をはばかって、一人去り、二人去り…

しかし清少納言は多くの人が定子から去っていく中、
ますます定子への忠誠心を強め、つくしぬきました。

中宮定子の没落と死

そんな清少納言に心無い噂が立ちます。
「あの女は敵である道長方と内通している」と。

清少納言はよほどこの噂に心を痛めたのか、
一言も弁解せず宮中を退き、隠棲しました。

一説によるとこの時期に『枕草子』を書き始めたと
言われます。

あの明るい『枕草子』がこんなにも暗く、重い時期に
書かれたと考えると、感慨深いものがありますね。

その後、中宮定子からの呼びかけに応える形で
再度宮中にのぼりますが、権力者藤原道長からの
圧力は日に日に増していきました。

とうとう中宮定子は宮中を退き出家して尼になり、
身も心も疲れ果てて長保2年(1000年)、24歳で帰らぬ人となります。

中宮定子の没後、清少納言は宮中を去りました。

その後の清少納言の消息はよくわかっていません。
晩年は京都東山の月の輪に隠棲したともいいます。

『枕草子』 その内容

『枕草子』は300あまりの章に分かれた随筆集で、
その内容は大きく3つに分かれます。

①類聚的な章段…「山は…」「川は…」
「美しきもの」など、一つのテーマでいろいろな物を
列挙した章段。

②日記的な章段…作者清少納言が中宮定子に
お仕えしていた生活の中、
見聞きしたことをつづった章段。

③随想的な章段…冒頭の「春はあけぼの」に代表される、
作者清少納言が物事や人物についての感想や批評を
つづった章段。

ただし分類は厳密なものではなく、
どれにも組み入れづらい章もあります。

全体を通しての筋は乏しく、
いろいろなことを書き綴った感じです。

どこから読んでもピリッとした知性が冴えわたり
明るい気持ちになれます。パラッと開いて、目についた章を、
現代語訳とあわせて気軽に読んでみるのがおすすめです。

『枕草子』 その由来

『枕草子』という書名のゆらいについては、
巻末の「跋文」(後書き)に書かれています。

ある時中宮定子さまのもとへ、
兄の内大臣藤原伊周(ふじわらこれちか)から
料紙の贈り物がありました。

料紙というのは、和紙に文様を刷り込んだ、
ぜいたくな紙のことです。

「まあ、けっこうなものをいただいたわ。
でもこれ、何に使おうかしら。
帝は「史記」(司馬遷の書いた歴史書)を書き写された
ということだけど…」

そこで側にひかえていた清少納言が、

「それでは、枕がよろしいでしょう(枕にこそはべらめ)」

「なるほどそれはよい。
ならばあなたにあげます」

こうして中宮さまから清少納言に料紙が下された、
その紙に『枕草子』を書いたのだ、
ということが語られています。

でも、これだけではサッパリわからないですね。

「枕がよろしいでしょう」
「なるほどそれはよい」

これは二人の間の暗号か何かでしょうか?

実は「枕」という言葉の解釈については、
いろいろと説があり、答えは出ていません。

司馬遷の「シキ」という書物の名前を「シキモノ」の「シキ」
と見て、向こうが足の下に敷くシキモノに使ったなら、
こちらは頭の下に置く枕にしましょうという洒落だったという説。

つまり「シキモノ」と「マクラ」の洒落だという。
この説が一番面白いと思います。



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